あまりにも有名なディストピア小説、
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』。
以前から気になっていたのですが、
先日やっと読了しました。
「オセアニア」という国が舞台。
この国は「党」がすべてを牛耳る全体主義国家。
そこで暮らす人々の姿が描かれています。
おそらく10年前に読んでいてもピンと来なかったでしょう。
もしかしたら「あまりに非現実的」と一笑に付して
終わっていたかもしれません。
でも今なら、全体主義国家の行き着く先、
その恐ろしさが伝わってきます。
オセアニアでは、「ニュースピーク」という
単純化した言語が開発されます。
言語は思考や概念と直接結びつきますから、
単純化すればするほど、思考も単純化する。
また24時間365日、「テレスクリーン」によって
監視されています。どんな不穏な動きも見逃しません。
そして党の三つのスローガン・・・。
「戦争は平和なり」
「自由は隷従なり」
「無知は力なり」
じつに恐ろしい愚民化政策。
そして、まずもってリアリティを感じるのは
「過去の書き換え」です。
何らかの都合で、我が国はA国と戦争していると
党中枢が発表すれば、
昨日までB国と戦争していたはずなのに、
これまでずっとA国と戦争していたことになる。
なぜなら党は無謬の存在だから。
あらゆる過去の文書は、すべて“改ざん”される。
我が国はずっとA国と敵対していた、というように。
ちなみにこうした仕事を行っているのは「真理省」です。
「え、B国との戦争はどうなった?」などと
疑問を呈してもいけない。
そういう人間は即刻「抹消」されます。
その存在さえなかったことになる。
そういう人はもちろん拷問されるわけですが、
これを担当するのは「愛情省」・・・。
要するに全体主義国家においては、
過去は変えられる
のです。
そのことを考えれば、森友文書は
「些末なこと」でもなんでもない!
「あってはならないこと」です。
また「内心の自由」まで監視されることの恐ろしさも
ひしひしと感じました。
読了した日の夜、私は夢の中で安倍政権を批判し、
それが寝言になって出てしまい、翌日拷問されるという
夢をみてしまったくらいです。
自分の心に、自分の本能に、ウソをついて、
そのことさえもきれいサッパリ忘れてしまえる、
あるいは自分にウソをついたことを肯定的に捉えるよう
必死に訓練をして打ち勝つ(党ではこれが「正統」となる)。
遠い未来から日本を見たとき、もしかしたら「共謀罪」は、
そうしたことを私たちに強要する「はじめの一歩」
だったということになるのかもしれません。
小説の中で、人々はただ盲目的に党を信じ、
どんなにイカレたスローガンも、
ばかばかしい行事も、率先して参加します。
そこに疑問を抱く主人公の行き着く先は・・・・。
私たちは実際の1984年を知っています。
オーウェルが描くディストピアは、少なくとも
日本では誕生しませんでした。
けれど、今の日本を見ると、いつそうなっても
おかしくないと思ってしまいます。